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高橋信次先生に学ぶ

高橋信次先生に学ぶ

釈尊の悟りと古事記の神話は同じである

- 正法と神道 -


釈尊の悟りと古事記の神話は同じである


私(園頭先生)が初めて高橋信次先生著「人間釈迦」第一巻の中の「偉大なる悟り」即ち釈尊がブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開かれたところを読んだ時、瞬間に頭に浮んだのが古事記の中の「天地創造神話」であった。


神は、神自身の「いのち」の自己実現として、神の霊による第一創造が始められた。
それが霊的宇宙である。

この世の太陽は、我々に光と熱とを与えて万物を生かしている。
この太陽の姿は神の慈愛の表現であるから、古代から人類は太陽を崇拝してきた。

しかし、現象界の太陽は、第一創造である霊的宇宙、実在界の霊的太陽の投影である。
この現象界は実在界の投影なのである。

人間も、神の心によってまず第一創造の霊的宇宙、即ち実在界に霊的人間として誕生した。
これが光子体の人間である。
そうしてやがて第二創造であるこの現象界に、肉体を持って姿を現わしたのである。


第一創造の世界即ち実在界での霊的人間、光子体の人間の創造は、神自身が
「斯くの如くあれ」
と想念されると、神の意識が細胞となって瞬間に光子体を造られた。

光子体の体が造られると、その瞬間に神の意識の一部がその光子体の胸のあたりに、すぽっと嵌め込まれるといっていいか、埋め込まれるといっていいか、投げかけられるといっていいか、我々がこの地上で使っている言葉では表現しにくいが、とにかく入れられる。

それが我々の霊、意識なのである。


この世の学者や医者達は、頭でものを考えるから心は頭にある、といっているがそれは間違っている。
我々の頭脳は、霊・意識を表現する一つの機械にしかすぎない。
頭脳は一つのコンピュー夕ー装置である。

唯物論的な考え方を持っている人たちは、心は頭脳が生み出すのであり、心は脳の物理化学的所産であるといっている。
その証拠として、麻酔薬を嗅がせると心が働かなくなる、事故などで頭脳が傷害をうけると記憶喪失になったり心が働かなくなると説明をする。

コンピューターが働くのは電気が流れているからであって、電気が通じてないコンピューターは作用をしない。

その電気にあたるのが我々の霊・意識・心であって、頭脳に障害があると心の作用がなくなるという人たちは、電気が通じていても、コンピューターの機械そのものが故障したり壊れたりすると、コンピューターが作動しなくなるという事と、同じであるという事を知らないのである。

高橋信次先生はよく、
「あなたたちは感激したり悲しい事があったりした時には、どこから涙が出てきますか、頭から出てきますか、胸の辺りからこみ上げてきませんか」

と話していられたものである。

我々はものを考える時に頭で考えるというが、しかし、じっくりとものを考える時には、「胸に手を当てて思案をする」「それはわたしの胸三寸にあります」という。

ひと頃、逆上して血が頭に上って落着いたものの考え方が出来なくなった事を「トサカにきた」といっていた。

心は頭にあると考えている人たちは胸でじっくりと考える事をしないで、頭で考えようとするから頭脳が充血して、丁度電気がヒートするのと同じで作動しなくなるわけである。

記憶するのも頭で記憶するのではなくて、心で記憶するのである。
受験勉強をしている人たちは、頭で記憶するのではなくて心で記憶するのだという事が分れば、記憶能力は何倍も増えてくる。
頭で覚えようとするから、頭が割れそうだと頭を抱え込む事になるのである。

心は胸にあるというが、その心は胸から腹の辺りの部分に広がり、下腹の辺りに当るところに意志決定をする意志の心がある。


「あの人は腹が出来ている」
「あの人は腹が坐っている」

というのは、その人が何をやるか、どのように行動するかは既に決まっている決心がついているという事であるし、

「あの人は腹が綺麗だ」
「あの人は腹が黒い」

というのは、その人のやる事が良いか悪いか、そのやる事の意志の問題を問われているわけであるし、

「腹が大きい小さい」

という事もやる事の大小を意味している。

そういう意志を持つのはその人の意識、心の如何を現わすわけで、その意識・心をどのように行動化するかは意志の問題で、どんなに良い事を考えていても、それを行動化しなければ、思っているだけでは無駄である。

だから結局その人の人間の善し悪しは、その人の意志のあり方によって決まるという事になる。


現象人間は、光子体の人間と肉体の人間が重り合って存在しているのである。
光子体の人間は神による第一創造の霊的人間である。
その第一創造の人間が肉体を持ったのが、第二創造の現象人間である。

肉体は、光子体の人間の型通りに母親の胎内で創造される。

肉体の生理作用の法則というものも、神の意識によって創造されたものであるから、肉体の健康は肉体の法則に順って維持しなければならないのである。

肉体は第二創造の世界のものであって、肉体そのものには生命力はない。

肉体を動かしているのは第一創造の光子体の霊.生命.意識であり第一創造の光子体の霊は、神自身の生命の表現である霊的太陽から生きる力、生命力を与えられているのである。

我々が見ている太陽は、霊的太陽の現象的顕現であって、我々の肉体という物質は、第二創造である現象太陽の光と熱を受けてその存在が維持され、我々の霊・生命・心は、第一創造の霊的太陽からそのエネルギーを与えられているのである。

人生とは、神の意識から離れた神の意識の一部が、また、神の意識に帰る永い永い道程であって、そのために輪廻転生するのであって、今生きているこの人生は、永い輪廻転生の中の一駒なのである。

光子体と現象肉体と重り合って生きている人間から、光子体が離れてしまうとすればそれが肉体人間の死である。
第一創造と第二創造の肉体は人間だけのことではなくて、動物も植物も鉱物も皆そうである。

だからこの世にあるものは、皆あの世にあるのである。

古事記にはそのことを神話として書かれているのである。

釈尊の悟りの言葉を見てみよう。

「この大宇宙は神によって創られた。
大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけがそこにあった。神は、その意識の中で意志を持たれた」


この「神はその意識の中で意志を持たれた」ということの意味をよく考えてほしい。
この、神が一切を創造されたその方法順序が、我々人間が色々な生き方をする方法順序になっているのである。

「こうしよう」と思っても、「する」と心即ち意志で決めて「する」という実行・行動・実践に移さなければ何一つ実現しないのである。

よく、なぜ善人が不幸になるのか、病気になるのかとよく聞かれるが、その人は心では善いことを考えていても、善いことを実行する意志の強さ・勇気を持たなかった人であるということができる。

不幸になったり病気になったりするのは心が暗いためであるが、善いことを勇気を持って実行したら、それだけ心が喜んで明るくなるから、不幸になったり病気になったりすることは絶対にない。

善いことをすればするほど、心は大きく広く豊かに明るくなるし、悪いことをすればするほど心は小さく狭く暗く重くなり、果ては「こんな自分なら生きていても仕方がないから、いっそのこと死んだ方がましだ」と、死の願望を持つようになる。

そうなると自分で自分が死ななければならないような行動を無意識のうちにとる、ということになる。

だから、善いことを思っただけでは霊の成長はないので、それを実行し実践することによって成長するのである。
実行し実践するには意志の力が必要である。


大宇宙の創造は、神の意志によって始まった」

思うことは、意志の力により行動化することによって実現するというのが神の法則である。


「天と地とを結ぶ電話」(J・クレンショー著、日本教文杜発行)の中で
「得られるべくもないものを、得られるかの如く説くニセ予言者に注意せよ」ということが書いてあるが、これは他力信仰をやらせている宗教団体全部にいえることである。

神の天地創造は、秩序をもって、一定の計画によって行なわれた。

それはこの天体が整然として一定の秩序をもって運行していることや、物質の分子原子の配列をみればわかる。

だから我々の思うこと行うことは決してデタラメであってはいけないので、必ず一定の秩序をもって計画的にしなければいけないのである。

「意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。
意識界の字宙はその意志をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこの二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった」


意識の働く宇宙即ち実在界、第一創造の世界こそが本当の我々の世界、我々の棲み家であって、第二創造の物質宇宙、現象界はその投影であり、物質は物質自体として働く力はない。

物質に生命があるように見えているのは、そう見えているだけのことであって、重っているからそう見えるにすぎない。

人間も、肉体が動くのは光子体と重っているからであって、光子体が肉体から離れると肉体は単なる物質であるから、死んだ肉体は動く力はない。

肉体は土に、物質に還元されるのである。

このことは旧約聖書創世紀の「神は、わが姿に似せて人をつくり、土をもてつくり、それに生命の息を吹き入れられた」ということに当る。

「思う」ということによって、物質界は動かされるのである。
肉体があって心があるのではなくて、心・霊・意識があってそれが肉体を動かすのである。


肉体を維持する根本になる心臓の鼓動は、心とは関係なしに肉体そのものの活動のように思っている人が多いが、神の意識の表現である霊の太陽から送られた生命エネルギーを光子体の意識が受け、霊子線によって肉体の心臓に繋がれているのである。

思うことが正しくないと、正しい結果とならない。

悪いことを思うと悪い結果となる、というのが因縁因果の法則であるから、正しい結果を持ち来たすためには、思いが正しくなければいけない。

ここに八正道の中の「正思」が大事なこととなるのである。

人生が楽しくないという人は、周囲の人や物を変えようとしないで、自分の思いを変えないといけないである。


「この二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった」

第一創造の光の世界、実在界の相が、そのまま第二創造の現象物質世界に投影されて、実在界の調和がそのまま現象界に顕現することがこの世界の目的である。

だからこの調和の実現を妨げていることは、神の目的にそむいていることになるから、何が正しくて何が正しくないかを、よく考えなければいけないのである。

争い・憎しみ.嫉み・悲しみ・怒り・怨みなどの心がいけないのは、それらの心は調和を持ち来たさないで不調和を生み出すからである。

「神の意識は、永遠の調和を目指し、そうして二つの世界にあって、調和の姿である中道という法秩序の中に住まわれることになった。人間は、天地創造と共に、神の意識から別れ、神の意志を受け継ぐ万物の霊長として産ぶ声をあげた」

神の天地創造の理を知り、人間は神の子として天孫降臨し、調和を実現することが人間の目的であることを知り、その眼で全てを見てゆくことを「正見」というのである。

正見とは霊的次元、霊的立場からものを見ることであって、現象界のことを右左見比べて平面的に第三者の立場に立ってみるということだけではないのである。

正見には、現象界に執われない厳しさが必要である。

現象的には損しても霊的に得をする方が正しい見方、正しい考え方をしたといえるのである。

昔から日本では「損して得とれ」という諺があった。

例えば、電車に乗って年寄りの人が来られた。
この頃の若い人は平気で坐っている。
私(園頭先生)は子供を連れている時は必ず「あなたは立ちなさい」と席を空けさせた。「早く乗って席を取んなさい」と、子供を先に割り込ませて席を取らせる親がいるが、こういう親は現象的には得したようであっても霊的面ではマイナスである。
そういう躾をされた子供もまた可哀想である。

人はしないのに自分だけするのは損だと思って、立たない方が霊的にプラスになるのか、人はしなくても自分は自分で正しいことをしようと思って、席を譲るのが霊的にプラスになるのか。

学校で放課後、教室の掃除をする時でも、何もしないで遊んでいるのもいれば、いつも箒を握ってラクな仕事だけをするのもいたし、私(園頭先生)はいつも人がやらないことをしていた。

時には、「なんで自分ばかりが、こんな損な仕事ばかりしなければならないのか」
と、自分でそうして自分で腹を立てて面白くもないと思ったこともあったものであるが、いざ、何かをするということになると、どうしても損な仕事をしてしまうのであった。


高橋信次先生がよく
「地位、名誉、金銭は実在界の基準にならない。その人の本当の値打ちは、その人から地位、名誉、財産を差し引いたものがその人の値打ちである。だから、この世で総理大臣をやった人よりも、農村の名も無き人のほうが高い天上界へ行くのである。」

と言われたのは、我々は霊的にプラスになる生活をしなければならない、ということを教えられたもので、霊的にプラスになる行為をしようと思うと、現象的には損することがあるので、そういう諺が生まれてきたのである。


「神の意識は、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった」


神は宇宙創造の中心であると同時に、宇宙に遍満しているとよくいわれる。
そのことはどういうことであるか。

多くの人は観念的にそう考えているだけで、心の真底から「なるほどそうか」と納得しているわけではないと思う。

夫と妻とが調和しているということは、夫と妻は個性を持った一つ一つの霊でありながら、同時に一つの意識に溶け合って一体であるということであり、親子が調和しているということは、親子は別々でありながら一つの意識に結ばれているということである。

その調和が中道であるということである。

分つことの出来ない一体なる意識を愛といい、神道ではこれを「産霊」(むすび)というのである。

その産霊という法秩序の中に、神は住んでいられる。


高橋信次先生は、よく水の例を引用された。
水はH2Oで、水素原子二個と酸素原子一個と化合して水となる。
水素も酸素も、どちらも爆発する危険性を持っている。
その二つが一つになって水となると、水は爆発性が無くなって火を消す力を持つものになる。
また、塩は、NaClで水酸化ナトリウムも塩酸も、どちらも骨を溶かすほどの劇薬であるが調和し化合して一体となると塩となる。


人間は塩分がないと生きられない。
塩で貯蔵すると食物も腐らない。

水・塩は、神の調和したむすびの相、神が定められた一定の法則によって産み出された神自身の相の現われなのであり、神道で水と塩によって祓いをするのは、神の調和した産霊の相が現われると一切の不浄、即ち神の調和に反した相は消えるということなのである。


キリスト教で、水で洗礼を施すのも同じ意味なのである。

調和を現わす努力をした時に不浄、不調和、不幸は無くなるのであるという法を忘れて、単に物質である水と塩によって、物質である肉体を浄めるという形だけになってしまっているのは残念なことである。

造られたものは全て、神の意識、神自らが造られた法によって、一定の秩序をもって造られたものであって、神は聖書に書かれてあるように、「ここにみよ、かしこにみよ」というように、どこか特定の一定の場所にいられるのではない。

造られたもの全てが、神自身なのである。
空気も地も水も全てが神なのであり、物質は物質という相に現わされている神なのである。


「法秩序の中に住まわれることになった」ということは、造られたもの全てが神であるということである。

このことを神道では「高天原に神留(かみつま)り坐(ま)す」というのである。

この宇宙は神の生命が満ち満ちている、というのである。


大祓詞(おおはらいのことば)のはじめに
「高天原に神留り坐す、皇親神漏岐神漏美の命以ちて、八百万神等を神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて......」

とあるが、神のみ心に叶っているかどうかをはかって反省をすると、

「罪と言ふ罪は在らじ」

ということになり、その罪は、恰も風が雲や露を吹き払うように、港に繋がれていた舟が綱を解かれて、どこへでも自由に大海原へ出る事が出来る様に、また、よく切れる鎌で雑草を薙ぎ掃うように、山から流れ出る泉が小川となり大河となって汚ない、ごもくを大海原に流し出し、大海原に流し出されたごもくは大海原の浄化力によって綺麗に浄化されるように、

「かくして、今日から罪という罪は無いということを、罪は反省によって祓い清められたのであることを完践します。天の神、国の神、全ての神々様達よ、よく私の心のあり方をお喜び下さい」

というのが太祓詞の中に書かれてある大意である。

これは正法において、反省によって心は綺麗になるという事と同じである。

この太祓詞の中に

「天津祝詞(あまつのりと) 太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ、如此宣(かくの)らば罪という罪、答と云ふ答は在らじと」

という言葉がある。

年輩の人々は、「ひふみよいつむななやこのと」とか「ヒフミヨイムヤコト」とか「ひとふたみよいつむななやこのと」とか、これは「一二三四五六七八九十」という一から十までの数字の日本的読み方であると教えられて、小さい頃、特に女の人はお手玉やおはじきをされたことがあるでしょう。

天津祝詞の太祝詞事というのが、実はそれなのである。

これは単なる数の数え方ではないのであって、天地創造から人類誕生に至るまでの神秘さを讃え、人間は神の子として天孫降臨したことを教えたものである。

人間が罪を犯してしまうのは、神から生まれた神の子であるという事を忘れて、この肉体を人間だと思うために、肉体の欲望を満たそうとするところから生じてくるのである。

そこで日本人は、人間は常に神の子の自覚を持っていなければならないということで、日常不断にそれを唱えて忘れないようにということで「天津祝詞の太祝詞事」を唱えたのである。

「天津祝詞の太祝詞事」は、人間が神の子であることを教えてあるのであるから、神の子であることを自覚して行動すると、罪は、恰も風が雲を吹き払うように消えて無くなるというのである。

罪を浄化する道は、それまでの自分のあり方を反省して心を綺麗にし、人間は神の子であることを知って神の子に相応しい行為をする以外にない。

神の子であることを自覚せず、心を綺麗にする事をしないで、いかに祈ってみてもそれによって罪が消えることはない。

神道では、清く、明るく、正しく、白く、気高く、という心を尊ぶ。


では、天津祝詞の太祝詞事を解説しよう。

一(ヒ) 二(フ) 三(ミ) 四(ヨ) 五(イ) 六(ム) 七(ナ) 八(ヤ) 九(コ) 十(ト) 百(モモ) 千(チ) 万(ヨロズ)
          

1 ヒ 霊

この宇宙の最始源には一つの神があった。
これを神道では天之御中主神といい、以前の大宇宙は、光明という神の意識だけがあったと悟られた。
釈尊は、大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけがあったと悟られた。


2 フ 風

宇宙最始源の神の意識が陰と陽の二つに分かれ、その陰と陽の働きによって一切は造られることになった。

神道では高皇産霊神、神皇産霊神以下伊邪那岐命、伊邪那美命の働きで現われ、伊邪那岐命と伊邪那美命の働きによってすべての国生みがなされる。

釈尊は意識の働く宇宙とその意識によって動く物質界がつくられることになった。
それは光と影という相関関係によって調和を目的としてゆくことになったと悟られた。

霊的宇宙、実在界の宇宙が創造され、それによって現象宇宙、神の生命を顕現するために人の住む世界、この現象界に於ては地球が創造されることになった。


3 ミ 水

現象地球は最初、水に覆われていた。
星雲状態から次第に凝縮した当初は、地球はまだ形を成さず、求心力によって重い物質は地球の中心部へと沈み軽いものは遠心力によって飛び、地球上は水蒸気と海に覆われていた。


4 ヨ 世

度重なる海底爆発によって海面上に陸地が隆起し、地球を覆っていた水蒸気は晴れて生命を発生する条件が整ってきた。
神道では伊邪那岐命、伊邪那美命による国生み、自凝島(おのころじま)の出現である。


5 イ 生命の出現、微生物の誕生、植物の誕生発生

釈尊は、最初の生物は、太陽の熱と光、大地と海水と空気と、それに意識界と表裏一体の宇宙空間の相互作用によって微生物が誕生し、つづいて植物が発生したことを知られた。

神道では地球の主宰神を国常立尊といい、豊雲野神(とよくもぬのかみ)によって空間が浄化されると、地上に生命がむくむくと誕生発生してきたというので角桟(つぬぐい)、活桟神(いくぐい)と表現してある。


6 ム 虫類の発生

植物が発生すると、その間に棲む虫類、小動物が発生した。


7 ナ 魚類の発生

昔は日本人は魚屋のことを「魚屋」(ナヤ)といった。
海に棲む動物が誕生した。


8 ヤ 鳥類の発生

鳥が矢の如く飛ぶことを形容して「や」という。
すべての鳥類が発生した。


9 コ 大動物、獣類の発生

釈尊は微生物が誕生し、続いて植物が発生し、動物が姿を見せはじめた。
やがて爬虫類時代を迎え、一時期、地上は荒蓼とした姿に変貌をとげる。
恐竜の時代も下火になった今から二億年前、人類は、特殊な乗り物に乗って、他の天体から飛来したものであることを悟られた。

日本では昔から、牛の尻を叩いたり、鼻面をとって牽く時に「ココ、ココ」という「コ」とは獣類のことである。
人類誕生の前に大爬虫類時代があったことはよく知られている。


10 トまたはタリヤ 人類の誕生、天孫降臨

人をヒト(霊止)という。
宇宙最始源の神の霊がトととまって止りとどまって現われたということで、人とは宇宙大神霊の子即ち神の子であるということである。
これを天孫降臨という。


高橋信次先生は講演の時、「人は天孫降臨してきたのであります」とよく話していられた。

釈尊は、人間の誕生は、意識界という実在の宇宙に、まず姿を現わした。
そうして、神の意志である調和をめざす神の子として、物質界に降り立った。


当時の人類は、荒蓼とした地上を開墾し、人間が住める環境である大地に、動物、植物の相互依存のしやすい調和の世界をつくることを目的として万物の霊長として誕生したと悟られた。


(百 モモ  百年) 
(千 チ   千年)
(万 ヨロヅ 万年) 

無限に神の子とし、万物の霊長として誕生した人間(霊止)が、百年、千年、万年と、無限に先々発展してゆきますようにという願いである。

神道ではこれを「生々化育」という。

釈尊は、神の意志である調和という仏国土を建設するために人類は存在し、人々の魂はそうした建設を通して、永遠の進化をめざすことになったのであると悟られた。

このようにして、釈尊が悟られた正法と神道とは同じなのであって、日本人は古来から、この天津祝詞の太祝詞事を唱えて神の子の自覚を深めてきたのである。

神道の鎮魂帰神は、仏教の禅定と本来は同じである。


神の子の自覚をいつも深めようと思う人は、「ヒフミヨイムナヤコトモモチヨロヅ」と唱えられてもよいのであるが、念仏や題目と同じにならないようにしなければいけない。

この天津祝詞の太祝詞事は、罪稼れを祓い浄めることだけでなく幸運を呼ぶ秘事として伝えられてきたもので、安易にみだりに唱えてはならない、

もっと大事にしなければならないということで、口から口へと伝えられてきたものである。

常に神の子の自覚を持ち、常に神の子にふさわしい行動をすればまた幸福になるのも当然である。

釈尊が説かれた正法と、日本古来の神道とは同じなのである。


しかし正法も神道も、永い年月の間に大きく歪められて、現在では全く違ったものとなっている。

神話は、その民族、種族が、宇宙の創成、人類の誕生等をどのように考えてきたかという世界観、人間観を示したものである。

例えば人類の誕生にしても、ある国の神話は一人の少年と山中にいた雌の狼との間に生まれたのが、その民族の祖先であるというのである。
それに比して日本の神話は、人間は神の子であるというのである。

終戦後の日本人の心を毒したものの一つに、進化論がある。
日本が戦争に負けたということで、日本の古いものはみな間違っている、悪いものであるという考え方を持ってしまった。

このような考え方にさせてしまったのは、マスコミと日教組と日教組を指導する、大学教授の講師団であった。
終戦後の子供たちに徹底して、進化論を正しいと教え込んだ。

人間は猿からだんだん進化したのであるというのであるから、古い時代の人間ほど猿に近いと無意識のうちに考えて、古いものの中にも素晴らしいものがあるという事を知ろうとしないし、考えなくなった。

杜会科で教える歴史は、弥生時代とか縄文時代などという事で、単に生活様式の上だけのことを取り上げて、形の上だけでの文化の程度を批判をしているに過ぎない。

意識・心・ものの見方、考え方がどうであったかということは少しも教えなかった。

質素な生活をしているから文化の程度が低くて、豪華な家具調度を持っているから文化の程度が高いとはいえない。

生活様式の上からだけ批判するならば、釈尊やキリストは最低の人間だということになるであろう。

真面目に低い給料で働いている人は愚かで、大企業の社長の方が人間的に立派であるということはいえない。

とにかく進化論は、古い人間は猿に近いから古い人間の言うことは近代的でないという、たったそれだけの事で、古い人に学ぶ、古いものを大事にするという事をさせなくしてしまった。

現在、人間が猿から進化したということを証明し得るものは、世界中どこにもない。
ただそうだと書かれた文字があるだけである。
そう考えたというだけのことである。

ダーウィンやそれを支持する人たちが、そう考えたというだけの事であるならば、われわれは別な考え方をすればいい。

ダーウィンの考え方の奴隷になる必要はない。


統計は、真実であるが真実でもない。
何を基準にするかということによって、自由に結果を変えられるからである。


例えば運命学の統計でもそうである。

運勢判断を見てもらう人はみな問題を持っている人である。

その問題を持って不幸であるという人たちの生年月日やその他を統計にとると、O年O月O日生れの人は、こういう問題があるという統計が出てくる。

現在幸福である、何も問題はないという人は運勢判断を見てもらうことはあまりしない。
そこで幸福だという人だけの統計をとれば、同じ生年月日で、この年生まれの人は幸福になるという統計が出る。

だから天中殺ということを心配する必要はない。
運勢判断をする人たちが共通的にいっているのは、「信仰をしている人の運勢判断は当らない」ということである。

釈尊は、「手相、人相、星占いなど必要はない」といわれた。
それは八正道を実践すれば、必ず天命を全うすることが出来る事が分かっていられたからである。


東京に気学の先生があった。

その人は正法の話を聞かれてから、気学で判断することをやめて、相談に来られた人には正法を話されるようになった。

そうして言われるのである。

「先生、気学でやっていた時よりも正法で指導するようになってから、どんどん立派になって行かれるんです。不思議ですね。この間も事業が上手くゆかないという方が来られ
て、色々話したんですが、お蔭で良くなりましたとお礼に来られました。」と。


統計で癌で死亡する人が増えたという数字が出ると、心配性の人はすぐ「自分も癌になったら困る」と心配をする。

ちょっと身体の調子が悪いと癌の徴候じゃなかろうかと心配をする。

われわれはそういうことで、心配をする必要はない。

心が運命を支配するのであるから、「自分は癌にならない。自分は健康である。」
と心を明るく安らかにして、適切な健康法を取れば絶対に癌にはならない。


日本人は、この宇宙の成立ち、人類の発生をどう考えてきたかというと、古事記に書かれてあるように、この宇宙、この世界は神によって造られたのであり、人間は天孫降臨した神の子であり、日本という国は神のみ心を実現するために建国されたのであると説いて、報恩感謝すべきことを教えてあるのである。

王政復古、明治維新は、神武天皇が祭政一致、神を祭ることと政治をすることは一緒である。神の心を持って政治をしなければならぬということを日本国家の創業の理念とされた。

そのことを復活しなければならぬということで、「諸事神武創業ノ始二基キ」と王政復古の大号令は発せられたのであった。
しかし、明治新政府の高官達は、この国家創業の神武の理念を忘れて私利に走った。

全国各県の不正給与、カラ出張等、政治家、官公史の腐敗の根源は既に明治維新直後に始まった。
「親方は日の丸」の意識である。

このことを一番心配されたのは西郷隆盛であった。こんなことでは誰のために明治維新をやったか分からぬ、自分はその一味に加わりたくないと、いうことが西郷隆盛が鹿児島に下野された根本原因である。

征韓論に破れて下野されたと学者達は書いているが、それは明治新政府に愛想をつかして、事、志と違って下野される一つの理由であったに過ぎない。

私学校生徒の暴発、明治新政府が「西郷を殺せ」と刺客を放ったその刺客が捕えられたために暴発し、西郷さんは仕方なく担がれたにすぎないが、それが明治十年の西南戦争であるが、この時西郷さんが「明治政府に問う」ということで言われたことは、私学校生徒が掲げた「新政厚徳」の旗に表現されている。

「新しい政治は徳を厚くすることをもってしなければならない」ということであった。
政治の腐敗は徳をもってしないところにある。


そこで、私(園頭先生)はここに高橋信次先生が私たち何人かの者に言っていられた事をお知らせしておきたい。

これは昭和四十八年十月に言われた事である。

「これまでの政治、経済、教育その他の体質を変えないと日本はよくならない。
正法を知った、足ることを知った人たちが政治をしないといけない。

いつも生産者が損をして、流通機構だけは儲かり、消費者はいつも高いものを買わされるという経済機構もいけない。

銀行、保険会杜は不労所得が多過ぎる。
日本各都市の目抜きの所はみな銀行、保険会社が立派な建物を建てている。

正法の実践者が多くなったら、正法の実践者の中から政治家を出し、正法の実践者が流通機構を担当し、正法の実践者が教師になる。
そして、正法の実践者が銀行、保険会杜をやる。

そのようにして日本を正法の国家にしてゆかないといけない。」


このようなことは、結局は神の愛の心をこの地上世界に実現しようとすることではないのか。

だとすれば、神武天皇による日本建国の理想も、明治維新の王政復古の理想もどちらも正しいことであるといわなければならない。

その神武天皇といわれた方は、インドで正法を説かれた阿悶如来という方であり、昭和天皇(の過去世)が、世界でいちばん最初に仏法即正法で政治をなさり、戦争放棄の宣言をなさった阿育王であり、つづいてカニシカ大王として出られた方であるというのであれば、まさしく日本は正法実現の国であるといわなければならない。




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